震災の記憶を世界に発信するバイリンガルの語り部、リチャード・ハルバーシュタットさん

壊滅的な状況のなかで下した、人生最大の決断

2011年に発生した東日本大震災で最大の被災地となった宮城県石巻市。死者・行方不明者は合わせて約3900人に及ぶなど甚大な被害を受けた石巻で、“被災地に残った外国人”として注目を集めた人物がいます。その人こそ、石巻市復興まちづくり情報交流館 中央館の館長、リチャード・ハルバーシュタットさんです。

震災当時、石巻市内にある石巻専修大学の准教授だったリチャードさん。東日本大震災が発生した日は職場である大学の研究室にいました。石巻の揺れは震度6強。大津波警報が流れたものの、唯一の情報源であるラジオからは市内の被害状況を聞くことができず、不安のなか2日間を大学で過ごしました。

友人の勧めもあり、3日目から避難所での暮らしを始めることに。そんななか、一通のメールが携帯電話に届きました。メールの差出人は母国・イギリスの大使館。原発事故の影響を懸念し、国外退避を勧める連絡でした。

「友人たちに相談すると、全員からイギリスに帰るよう促されました。『リチャードが安全なら、俺たちはそれが一番だ。募金とか、イギリスからできることをしてくれたらそれで十分だよ』皆、そんな言葉をかけてくれました」。2日後、大使館職員の迎えにより仙台へ向かったリチャードさん。その翌日には空港までのバスが出発する予定となっていましたが、自分がどうすべきか、気持ちは揺れ動いていました。

「その夜は大使館の方たちと話をして、イギリス政府の見解を聞き、ほかに自分の気持ちを整理するために、カウンセリング的に何人かが付き合ってくださいました。あとは部屋に入って、翌朝まで一人で悩みながら考えていました」。一晩考え、下した決断は石巻に残ること。「18年間暮らした石巻、そしてそこで出会った大切な友人たちが困っているときに離れるなんてできなかった。石巻に残らなかったら、自分を許せなかったと思います」。

バイリンガルの語り部として、震災の記録を後世に残す

震災を機に、今後の人生について改めて考えたリチャードさん。“生き残った自分にできる、別の道があるのではないか”、そう考え大学を退職。友人の手伝いなどを行ないながらこれからの道を模索しているときに、石巻市役所から、石巻の被災状況や復興の様子を発信する施設をオープンするので、働かないかと話を受けました。

「石巻に長年暮らし、震災も経験している、その経験を日本語・英語の両方で伝えることができる。教授をしていたので人前で話すことにも慣れていましたし、この仕事は自分に合っていると感じました」とリチャードさん。市からの依頼を快諾し、2015年3月より「石巻市復興まちづくり情報交流館 中央館」のスタッフとして働くことに。現在は館長として、震災の記録と現状を訪れる人たちに発信しています。

英語で説明を受けられることから、交流館には世界各国から多くの人が訪れています。「震災はどこにいても起こりうるもの。石巻の経験を伝えることで、震災は決して他人事ではないということを知ってもらい、防災への意識をもってもらいたい」。リチャードさんの活動は、石巻の復興を後押しするだけに留まらず、私たちが改めて震災と向き合うきっかけをつくり出しています。